識者の推薦コメント


『太陽肛門スパパーンと人間』推薦コメント

太陽肛門スパパーンと人間

加藤彰さんの投稿 : 『ミュージック・マガジン』フィードバック欄に掲載されなかった 2 通の投書をめぐって


絓秀実(文芸批評家)

革命には詩と音楽が必要だ。それは誰もが知っているが、忘れられがちなことである。ロシア革命100年であり1968年革命50周年の前年である本年に、太陽肛門スパパーンの「ベスト」アルバムが出されたことは、それだけでも記念碑的な出来事である。スターリン批判が実は「社民化」にほかならないことが明らかになった今日、花咲政之輔を「中心」とした有象無象のその「軍団」は、革命の不可能性が誰の目にも明らかな時代において、あえて革命の不可避性を、この20数年のあいだに主張し、哄笑と抒情とともに歌い続けてきたし、それは今後も持続されることだろう。千のロシア革命への反省、万のスターリン批判、そして、68年のロマン主義とアカデミズムへの回収作業に抗して、である。それが、実は、きわめて散文的な営みでもあることも、私は知っているつもりだ。


七里圭(映画監督)

発売から半年近くも聞くことができなかった。

太陽肛門スパパーンのベスト盤なんて、そんな、怖ろしすぎる。

どのくらい余裕があれば、受け止めることができるだろう。

そう躊躇するうちに、こんなに月日が経ってしまったのだ。

で、結局、全く余裕がない今、血迷って、勢いで、ディスクをスロットに入れた。

初っ端のフレーズから、ぶっ飛んでしまった!

なんてことだ、なんでもっと早く聞かなかったのだ!!

ヤバいよ、今この苦境が、桃源郷に思えてくる。

これだこれが歌なんだ音楽の力なんだ。

あまりに素朴な感動に、気がついたら、爆笑しながら頭を激しく縦に振っていた。


佐々木敦(批評家/HEADZ)

「音楽に政治を持ち込むな!」などという発狂してるとしか思えない主張も散見される昨今、太陽肛門スパパーンはそもそもの始まりからそこんとこを思いきり持ち込みまくりつつ、しかし単純素朴なプロパガンダとは一味も二味も異なる真にラジカルなポリティカルポップスを追求してきた。

そこではメロディが擾乱を喚起し、グルーヴが革命を欲望する。

ニッポンの歌謡の魂が、Jポップの虚妄と刺し違える。


阿部嘉昭(映画・サブカルチャー評論家、詩人、北海道大学准教授)

ポップスを脱臼させてもポップはさらに継続強化される――それが花咲政之輔の思想だろう。コード進行において、郊外論と生活論と政治論を反映させたかにみえる歌詞において、すべてアンフォルメルであること、これこそがポップの過激な多形倒錯をつくりあげる。それにしても稀代のヴォーカリストともいえる花咲の声のなんとスケベなこと。「たんなる淫猥」「ファンキーなジゴロ声」から「調性の外側へのまさぐり」まで、ビブラートをふくんだ声が世界を愛撫するのだ。とどのつまり楽曲のうつくしさにうっとりとしてしまう――これはなにかの間違いなんじゃないか(笑)。もちろんアルバムごとにコンセプトをしぼりあげてきた太陽肛門スパパーンに「ベストアルバム」などありえない。ところが曲が選ばれ並べられると、偶然が「ベスト」になってしまう。これもなにかの間違いなんじゃないか(笑)。ならば次は、ぜひ歌モノ集ではなく、コラージュ編集による「演奏集」のベストも!

註 : 阿部さんがかつて雑誌「ユリイカ」に掲載した太陽肛門スパパーンに関する論考、阿部さんがかつて早稲田大学で太陽肛門スパパーンを題材にして行った授業のレジュメは以下で読むことができます。

http://taiyoukoumonn.web.fc2.com/shoukai.html


尾原宏之(政治学・日本政治思想史)

太陽肛門スパパーンが結成されたのは、天安門事件、ベルリンの壁崩壊、チャウシェスク処刑に象徴される1989年である。左翼の旗を掲げる花咲政之輔たちが敗勢を戦いはじめてはや28年が経過した。

その活動時期の大半は、日本の「失われた20年」に該当する。それは、左翼にとっても失うものがあまりに多い歲月だった。追い詰められる一方なので、左翼が本来持つべき美徳である自己批判と自己変革の精神は姿を消した。共産主義革命が切り開く人類史の展望もマルクス主義の「科学」も忘れられ、PC的揚げ足取りや護憲のための護憲、「ネトウヨ」との攻防、人集めに多少の効能があるサブカル運動などにとってかわられた。

本作は、中央線「木賃ベルト地帯」や小田急沿線の新興住宅街で蠢いた人々(私もそのひとりである)の上を通り過ぎた歲月を追体験させてくれる。それは、アカデミズムも左派リベラル論壇も捉えそこなった「失われた20年」の大衆精神史といえるかもしれない。その中に身を沈めることは甘美で痛苦だが、同時に、自分自身を笑い飛ばす精神、自分自身を変えていこうとする精神が持つ可能性にも、改めて気づかされる。


輪島裕介(音楽学者・大阪大学/大学院准教授)

今を去る20数年前、大隈講堂裏早大ラテンアメリカ協会部室で一日の大半を過ごしていた。地方から出てきた18歳の自分には、都心の廃墟のような空間での放恣や逸脱や怠惰のすべてが危険な輝きを放っていた。入部当初、すでに5、6年生だった先輩から、「ブル軍はやばい。近づくな」と聞かされたことがあった。その時はこの界隈にラテアメ以上にやばい場所があるのかと訝しんだだけだった。

数年後、後輩たちが太陽肛門スパパーンという大所帯バンドのパーカッションに動員されていた。人身御供のようでもあった。かなり上の先輩はほぼパーマネントで入っているようだった。興味はあったが、後輩に様子を聞いても、フリージャズなんだけど歌謡曲でシモネタや寸劇が入って、といった説明でイマイチなにやってるかわからず、当時の自分はブラジル・バイーアにドハマりして原理主義的になっていたこともあってライブを見ることはなかった。

その後10年ほどの紆余曲折を経て、68年思想と演歌についての本を書いた。その時、思想的に最も影響を受けたすが秀実氏の著作のなかで、別の名前になっていた討論者が「ブル軍の小川さん」だということに気づいた。「やばさ」の意味が少しわかった気がした。でもまだ音は聞いていなかった。

さらに数年たち、今回、縁あってCDをお送りいただいた。後輩の名がクレジットされている90年代の録音を聞いて、その1,2年前までリアルに東京郊外の女子高生だったやつが「女子高生組曲」を演奏していたのか、と妙な感慨をもった。それはさておき、「演歌」が70-80年代の自己満足的な「日本人論」言説に包摂され、あるいは現今の「昭和歌謡」が一方ではオシャレサブカル商品化し、他方では懐古趣味的なナショナリズムに包摂されつつあるなかで喪われてしまった、過去の通俗的流行歌スタイルを猥雑かつ批評的に用いた戦闘的再構築、という「正しい」(とあえて言おう)方向が、ここに息づいていることに気付かされ、今更ながらボディブローのような衝撃を受けた。というか気付くまでに時間がかかりすぎだ。ちゃんとしろ、自分。

四半世紀たってしまいましたが、これからよろしくお願いします。


大河内泰樹(哲学者・一橋大学教授)

太陽肛門スパパーンはわたしの青春の一部なのでそれを客観的に評することなど出来ないのだが、しかし考えてみればこのCDで耳にすることができるのは、この50年くらいの間に音楽を聴きながら成長したすべてのひとの青春なのかもしれない。ここで消化されているすべてのジャンルの音楽に通じている必要はない(わたしはそうでない。ただ詳しい方がきっともっと楽しい)。でもはじめて聴く人も、そこに全く新しいにもかかわらずどこか懐かしいものを見出すだろうとおもう。

しかしまたたんなる音楽ではなく、表現としての太陽肛門スパパーンは、同時にそうした懐かしさのもとになっているわたしたちがどっぷりつかっていた文化そのものを相対化し、批判的に見ることを可能にする。そこで転覆されるのは、実はそうと認められなくても、時代のメディアによって形成されたわたしたちの意識でもある。素晴らしい音楽も芸術もイデオロギーとともにやってくる。だからそうしたイデオロギーの批判も同じ音楽と芸術によって行わなければならない。そうした自己言及的構造の中でしか解放は可能にならない。だからその一見政治的に正しくない歌詞も圧倒的な政治的正しさに支えられているのだ。


北村早樹子(歌手)

「ブリーフ一丁で戦う太陽肛門スパパーンはこんなに男臭いバンドなのに、歌の中にはいつもちゃんと女子が生き生き存在していて、歌にはいつもちゃんと私とあなたが存在している。花咲さんは実はとっても女子にやさしいことを知ってしまいました。ベストアルバム発売おめでとうございます。」


『アトミックサンシャインー河馬と人間』推薦コメント

太陽肛門スパパーンと人間


荒井晴彦(映画監督/脚本家/「映画芸術」編集長)

俺、英語が分からないのに英語の歌ばかり聞いてきた。だから、歌詞なんてどうでもいいと思ってるわけじゃない。歌は結局、メロディーじゃないのかと思っているのだ。特に歌詞が主張しているプロテストソングではメロディーが勝負なのではないだろうか。昔、五木寛之が「インターナショナル」だか「国際学連の歌」の歌詞は忘れたがメロディーは覚えていると書いていた。俺もそうだ。花咲よ、メロディーだよ、口ずさめるサビだよ。ボブ・マーリーの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」「ゲット・アップ、スタンド・アップ」、ジョン・ホールの「パワー」、ピーター・ガブリエルの「ドント・ギブ・アップ」……。花咲よ、ディランと岡林に戻ろう。そして、放送禁止のヒット曲を作れよ!


稲川方人(詩人/映画評論家)

2011年3月直後に「フクシマ・プロジェクト」なるものを立ち上げた人々、それに関わった人々を、「白河の関」からそれほど遠くはない町に生まれ育った私は心底憎んでいます。その憎悪は殺意と同じものです。思いがけない美しさと親和力を持った花咲政之輔らボーカルとコーラスの歌声を前にこんな悪態をつくのはふさわしくないですし、悪態に日々をやり過ごしているいまの私が堕落しているからなのですが、政権政党の虚構の法を前に数万の人々が国会を取り囲んで「反戦」を唱えている様子を見て、私の殺意は増幅してゆきます。この法案成立に対峙して「反戦」を唱えることがいかに短絡的か、いかに権力に従属的か、いかに未来を危うくするか、誰も言わないのは何故なのかと悲しいのです。いまわれわれが緊急にすべきことは、終わらない資本主義への殺意をこそあらわに声にすることだとなんで誰も言わないのでしょうか。それは、永遠に敗北に終わる殺意ですが、しかし、いまその殺意が緊急なのです。「原発」も「戦争法案」も、そう遠くはない将来に国家形態の変動を余儀なくされているこの国の資本主義の方向にこそ見えるものなのではないでしょうか。その都度終わりを先送りされる資本主義への殺意においてしか私には未来が見えません。『アトミックサンシャイン 河馬と人間』から瞬間的に受け取ったのは、そんな堕落した私の殺意への優しさに溢れた同意でした。

長いコメントになってしまいましたが、もし許されるなら、このコメントの本来の趣旨であります、楽曲へのシンパシーをまた改めて送信したいと思っております。


佐々木敦(批評家/HEADZ代表)

とにかく「音楽」としての懐が途轍もなく広く深い。
太陽肛門スパパーンは日本ポピュラー音楽の隠れた至宝である。
ここには多くのミュージシャンが忘れてしまった、忘れたふりをしている重要な何かが沸々と漲っている。


井土紀州(映画監督/脚本家)

一九九八年に発表された太陽肛門スパパーンのファースト『馬と人間』は、同時代の表現の中で最も衝撃的なものだった。あれから、十七年。花咲政之輔は路上や深夜のファミレスで地道なフィールドワークを積み重ねながら、ついに新作を完成させたのだ。

一九九〇年代後半、女子高生だった森山花子やのりこ、啓子たちももはや三十路。福島県川俣町で悶々とした青春を送っていた渡辺朋徳は、今どうしているのだろう? 除染作業員として働いているのだろうか?

新作では彼女たちの現在が痛烈に描き出され、『馬と人間』と続けて聞いていると、サーガともいうべきその音楽世界にめまいを覚える。

九〇年代には、遠い昔だった東京オリンピックが、近い未来となった今こそ、スパパーンの音楽はリアルに響く。


絓秀実(文芸批評家)

「革命をやるやる詐欺」に似て、アルバムを「出す出す詐欺」かと思っていたら、遂に出た。心地よく聞いているうちに全身に笑いと活気が充満する。現代資本主義の腐土の上に開花したボルシェヴィズムの毒花。」


七里圭(映画監督)

花咲政之輔は日本のザッパだとかねてから思っていたが、今回のアルバムを拝聴してますます確信した。しかも、それは秘宝館に飾られているザッパの蝋人形というイメージである。シュールでかつセンチメンタルなのだ。昔、助監督の同僚でストリッパーもしていた女史が、深夜に巡業先の四国のどこぞの海辺の公衆電話から、「ザッパが死んじゃったよ~」と泣きながらかけてきた甘い思い出を、このアルバムを聴きながらひっそり噛みしめた。


酒井泰三(ギタリスト)

全体として緻密に計算されていると感じました。
一曲目などは、スティーリーダンを彷彿とされる感じ。
気に入った曲調は、boogie-woogieピアノ炸裂の曲とかリズム的にニューオリンズっぽい奴とかが好きですね。
各曲のアイデアが、凝っていますね。
唄の感じも音程とかメロディとか、難しいのに、よく歌えるなぁと感じました。
そこで思うのは、伝えることの難しさです。
音楽の送り手ですので、その難しさには、いつもどうしていいのやら、自分でもわからないです。
歌詞の意味。
全て、聴いた瞬間に伝わること。
例えば、演歌の歌手の大御所などは、やはり流石だなぁと思います。
なんだろう?
多分、歌詞とメロディは、別に出来たのかな?と感じました。
というか、一発目の曲だから、余計に気になるのかもしれないけど、うまい言い方が出来ないのですが、メロディと歌詞が分離しているように感じました。
かなり高度で難易度高いことをやっているのですけれど、其処を更に越えて、スゥッと入って行く音楽っていうのかな?
そこに行けたら素晴らしいのになっと、思いました。
何か飛んできた曲は、シンプルなブギっぽい曲で、唄がシャウトっぽく、声を張っている場所です。
ただし、私の趣味的な感想ですので、暴言等許してくださいませ。


北村早樹子(歌手)

このアルバムを聴いていたら今の日本はなんて愉快な国なんやろうと笑っちゃった。社会の動向に滅法疎いわたしみたいな人間に、すごくわかりやすい言葉で現在の日本に何が起きているのか教えてくれるアルバムやと思いました。そして歌はこんなにも自由に何でも歌っていいものなのや、と最強の一例を見せてもらってたいへん勇気が湧きました。


さいたまんぞう(歌手)

小学生の時「なぜか埼玉」のレコードを買いました、と言う被害者の方から突然メッセージが届きました。我らのバンドのCDの感想コメントを下さいませんか、と言う、八百屋で魚のような注文。歌手もどきのことをやっていますが、私の音楽に対する知識、思想なんて素人以下。自分のことが分からず、暗中模索の私が、他人様のCDへのコメントなんてとてもとても、。一つ言えることは、ブラスのサウンドがごきげんで、CDも良いのですが、ライブを見たくなるバンドです。「原発・アウト!」「安保法案・アウト!」もよろしく。


ケイタイモ(WUJA BIN BIN他/元ビートクルセイダーズ)

何と今、太陽肛門スパパーンのアルバムのコメントを書いています! 10年以上も前に衝撃のライブを目撃し、それ以来ずっと気にし続けていた あのバンドの! 熊谷が本拠地じゃないかと言われて、熊谷のモルタルレ コードに電話して、何か知らねえか? 何かスパパーンへのきっかけはね えのか? と訊いたりしてたんだけど…

結局SNSで繋がりました。便利ですね~twitter! じゃなくて、今回のアルバムですが最高に決まってます!


笹口騒音ハーモニカ

太陽肛門スパパーンという名前をずっといろんな知り合いから聞いていたのですが、名前からしてヤバそうなのでなるべく聴かないようにしていたのに遂に聴いてしまいました…名前に違わずやっぱりいろんな意味でヤバかったです…笹口の肛門どうしてくれるんですか…


辰巳"小五郎"光英(トランペット・テルミン奏者/ex.The Space Baaaaa!!!/渋さ知らズ)

続々と続く美しく甘く時に享楽的な曲の数々。
はて、これは快楽に明け暮れ欲の限りを尽くしてきた懐かしき昭和「原子力は明るい未来のエネルギー」時代の肌触りではないか。
だがその明るい未来とやらが人類の肛門から漏れて、日々海や空気を汚し続ける今世紀。
歌詞に秘められた辛辣で真摯な毒の数々がワシらの脳細胞をかき回す。
肛門から太陽が飛び出す「スパパーンは明るい未来のエネルギー」時代が遂に来た。


尾原宏之(政治思想史研究者)

この作品を、安倍晋三の知能をあざ笑うタイプの下劣な政治風刺と同一視して欲しくない。ここに活写されているのは、安倍とその取り巻きを小馬鹿にしているおしゃれでスタイリッシュな「市民」と知識人の奇怪な内面世界でもある。実際、戦後消費文化の申し子である彼らの思想と行動のエネルギー源は原子力発電そのものなのであり、その偽・悪・醜に満ちた事実を明朗に自己批判するところから今日の「前衛」が始まる。


阿部嘉昭【評論家/詩人】〉

ファンキーの美酒佳肴、これでもか。つるつる河馬さんの横行、それでもか。ああニッポンの世界資本主義に、放射能きらきら。耳がマゾになり、こころがサドになる。「中指 それが決め手」の中指いっぱいミュージック! おおスパパーンのくろさがまっしろだ!!


中島一夫(文芸批評家)

ほぼ同年齢で同時期に同じ大学にいた花咲政之輔は、私にとって、あり得たかもしれないもう一つの生だ(と勝手に思っている)。私もまた、例えば高校生のときに駅で戦旗派の署名をするような機会があったら、まったく違った人生になっていたかもしれない。もちろん、それは同時に、今となってはとりかえることができないという強いオブセッションをともなって、こちらの存在に食いこんでくる。その存在は、ともすると流されては硬直化しそうになるこちらの思考に、根本的な変更を迫ってくる他者だ。

他者は不快だ。アルバム冒頭から聴こえてくる災害警報のように。徐々に音楽になじみかけ、いよいよ快を感じてきた矢先に、それは再び冷水を浴びせにやってくる。また、メロディーに行儀よく乗っかることがない、「奴隷の韻律」(小野十三郎)を頑なに拒むかのような歪で不格好な詞は、安易にリズムや音感に共鳴し口ずさむことを許さない。

さらに歌詞カードをめくれば、今度は「寄進者芳名」とあって、カンパの額によるのだろうか、氏名の文字フォントの大きさが露骨に差別され、まるでアルバムへの貢献度が壁に貼りだされているような感覚を覚える。下位の方に名前があろうものなら、己の名を虫眼鏡で見つけ出さねばならないという、ちょっとしたハラスメントを受けることとなる。だが、そこには、同一労働=同一賃金ならぬ、同一カンパ=同一フォントの鉄則が貫徹されているのかもしれない。差別するなら、属性ではなく、鉄則にしたがって差別せよ、というPC批判。

「ネットは見たくなかったら消せるわけだけど、ビラ撒きは消せないし、意味ないという人は嫌だと思ってもいるわけだから、それは重要なんじゃないですか。「強制力」がポイントですよ。相手に嫌な思いをさせる」と花咲は言う(「子午線」Vol.3インタビュー)。

この言葉は、かつて批評家のすが秀実(本アルバムでも「very special thanks to」と最大限の感謝が捧げられている)が、同じく批評家の柄谷行人に、「人の嫌がることをする人」「いいことをしても、人の嫌がる形でしかしない人」と評されていたことを思い出させる。そういえば、あれもまたPC批判の文脈だった。

批評が困難な現在、まだ批評があり得るとしたら、まずもってこのPCに包摂された「御花畑」に、いかに「強制力」で不快をもたらすかにかかっていよう。そして今は、この快は「自然生長性」、不快は「目的意識性」のことだと強弁しておきたい。

いつか、潜在する無数の花咲が、ビラも撒けない「御花畑」に、嫌な思いをさせてやろうとビラを撒きにやってくる。この作品は、そんな光景をありありと思い浮かばせる。


烏賀陽弘道(ジャーナリスト/写真家/音楽家)

まったく、ただでさえひどいバンド名である。なのに、見よ! 白ブリーフ一枚のおっさんたちがブヨブヨの裸体で、実に高度な演奏を繰り広げているではないか。そのいま「日本でもっとも善男善女が忌避するであろう音楽集団」が、いま社会でもっとも重要なメッセージを放っている。この奇態に一体どう対処すればいいのだ。いや諸君、恐れるるなかれ。いつも変化は辺境からやってくる。この異形のマレビトたちを迎え、宴を祝おうではないか。盆暮れ正月クリスマスバレンタインデーハロウィーンが一緒に来たように。


迫川尚子(写真家/新宿「BERG」副店長)

「さよならするぜ。この俺に」が気に入った! 太陽肛門スパパーン+ザ・ヒメジョオンの新譜「アトミックサンシャイン-河馬と人間」の中の1曲。グッとくる。何回聴いても例の音にはドキッとする。不思議なバンド名とキュートなジャケット。パワフルなリズムサウンドに甘い歌声。なんとお洒落でかっこいいではないか。


井野朋也(新宿駅構内「BERG」店長)

何より声がいい。しびれます。音楽性豊か!エアコンのきいたオシャレな部屋で心地よく聞くこともできます。ただ、その部屋のインテリアにはなりそうでならないですね。なぜなら部屋の主はこのレコードで、インテリアはむしろ自分だからです。のびのび弾けているのはこのレコードで、自分はそれを羨んでいるのです。だからレコードが終わると正直ほっとします。でもまたかけなおします。ヤミツキです。(たまにベルクでかけますが、店内でも一番のびのび弾けているのはこのレコードです。)


金田康平(THEラブ人間/歌手)

今回コメントの依頼をいただいたときに『太陽肛門スパパーン』のメンバーの誰かとお話をした記憶が蘇ってきた。
雨の日の下北沢SHELTERで、ぼくも彼も階段でチラシ配りをしていた。それはぼくの思い違いかもしれないし、記憶の落とし穴にぽっと産まれたパラレルワールドかもしれない。
そしてこのアルバムを聴いたあとのぼくは、少なくともパラレルワールドを生きているわけではなく、現実のおどろおどろしい世界を生きている。
そんなもんだから、こんな俺にさよならしなきゃいけない瞬間の連続だと気付かされてしました。
少し長くなりますが太陽肛門スパパーンの表現は、ほとんどの日本のバンドがくちびる噛んで嫉妬するレヴェルまで音楽的風呂敷を広げてしまい、音符全てにぎゅうぎゅうに詰まったその勇敢さには、自分が抱えている『この歌詞じゃ。』とか『このメロディーじゃ。』なんて悩みはミミズの脳みそほどの小ささだということも教わってしまいました。


田村優介(弁護士)

現代の日本に生活しつつ言語を用いて表現活動するのに,いま,原発のこととか安全保障のこと,安倍政権のこととかが自然に口をついて出てこないのはあまりにおかしい。CD出すなら帯とかに原発や安倍についてどう考えているのか記載するのがあたり前でしょう。なのにそういうバンドがほぼいないのはどうしたことか。いま唯一普通であたり前の作品を上梓した太陽肛門スパパーンを圧倒的に支持します。音楽は超絶に格好よく,美しいです。


松本潤一郎(哲学者)

……これなんで河馬なんでしょうね
バカをひっくり返したのかな(笑)
それと人間
シュールな組み合わせだ
意味不明の関係図も二つもついているし
円谷幸吉の霊魂が呼びだされてるのは
2020五輪粉砕の一環なのかとか
いろいろ考えさせられます
「ドントフィール、シンク」だな

……資本主義下で漫然とやりすごして流れていく
日常生活に鋭い突っ込みを入れて停止させようとしているから
「考える」の始まりは停止することだからね
でも歌詞はリリックなんですよね
いわゆる政治的なボキャブラリーではなくて
感覚的ではないけど抽象的でもない
メロディとアレンジも正統できれいで聴きやすい
過去の偉大なミュージシャンたちへのオマージュがある
先達の音をすごくよく聴いてつくられていますね
じぶんらには先達の切り開いてくれた途なくして
このアルバムをつくることはできなかったという
謙虚さがある

……タイトルは挑発的なんだけど政治や社会問題を
坂本何某とか和合何某のように消費回路に落とし込んでいない
キャッチコピーにならない
なんでかっていうと地域性というか地元の生態(笑)みたいなものに根差していて
自分の出自や育ちや環境を隠したり曖昧化したりしていないから
人間は必ず時空の物理的制約を受けて生きて死んでいく
ということがふまえられて出てくる言葉だから
ちゃんとものを考えていることがわかるし信頼できる
「市民」っていうジャーゴンはそういうのを隠蔽する抽象なんだけど
そういうのを巧みに牽制してる

……こういう文化発信が未だに行われている
っていうのがすごくうれしいですね
ほぼ奇跡ですよ(笑)
「言葉で音を断ち切る」っていう高橋悠治のスローガン
あれは悠治さん自身にもけっきょくできなかった
今後はこの課題にとりくんでほしい
すごく難しいけど
音楽が好きな自分を否定するようなところに
行っちゃいかねないわけだから
その意味で誰にもできないことかもしれないんだけどね

……それとねヴォーカルが声よすぎますね
これ聞き惚れちゃうね
ちょっとくぐもった音でね
ぼかされてるぶんよけい聴き続けたくなる
風呂場でレコーディングしてみたんだけど
一ヵ所窓閉めるの忘れてました的な散文性(?)もあるよね(笑)
バックコーラスとホーンセクションもすごくいいですね
このゴージャスな音でこの歌詞はないよね(笑)
そのへんもバタイユ的でいいですね
惜しげもないポトラッチというか呪われた蕩尽というかね

……これからも続けていってほしいですね
芸術における制作は孤独を伴う集団作業だから
コミュニズムの原点みたいな部分があるでしょ
自由と平等という矛盾の止揚の模範というかね
活動家のつねに立ち戻りうる参照点というか道標というかね
そこが重要なのよね
べつにコミュニズムなんて言葉使わなくてもね
それはつねにある、特に芸術にはね
『河馬と人間』にはそのことへの
敬意がみなぎってるよね

……金があればね
スティーヴ・アルビニとか
ジェロ・ビアフラとか
プロデューサーに迎えていただいて
これは僕の個人的趣味なんですけど(苦笑)
それでどんな音と言葉が出てくるか
聴いてみたい気がします
続けていくのはたいへんですけど
応援したいですね